‘Outside of society
That’s where I wanna be’
「世間とやらの外側が
アタシがいたい場所」
まるで詩集のようなTシャツを作れないものか?
– like an anthology –
昨年辺りから何となく考えていたことだ
その機会を与えてくれた「世間」に対して感謝の気持ちを表する
折しも – L’ETRANGER / Albert Camus – の再読を終えたところ
初めてカミュの「異邦人」を読んだのは20代の半ばだっただろうか?
主人公ムルソー
母の通夜を終え、葬式に向かう道中
葬列に加わった看護婦が語る言葉と、その後のムルソーの運命に僕は数年間を絶望して過ごすことになる。
が、結果的に
「必ず第三の選択肢、つまり『抜け道』は、どんなときにも眼の前に開かれている。」
と思い至ることになったのだから、良い経験だったと言える。
「『ゆっくり行くと、日射病にかかる恐れがあります。けれども、いそぎ過ぎると、汗をかいて、教会で寒けがします。』と彼女は言った。彼女は正しい。逃げ道はないのだ。」
不条理の認識を極度に追求したカミュの代表作ですが
カミュが「異邦人」の英語版に寄せた自序が、この作品の明快な解明を与えているので、ここに引用しておく。
「… 母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告される恐れがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるよりほかないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことを言うだけでなく、在ること以上のことを言ったり、感じる以上のことを言ったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、我々は毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところと違って、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう…」
ムルソーは、否定的で虚無的な人間に見える
しかし彼は一つの真理のために死ぬことを承諾したのだ。
これは、その否定的対話によって、既存の社会体制、道徳、宗教を盲信する保守的な人々から糾弾され、不当な死刑に処せられたソクラテスの生き様と重なるものがある。
彼もまた、自らが信じる正義のために嘘をつく(演じる)ことを拒否し、毒薬を飲んだのだ。
カミュの作品は「異邦人」しか知らない
他に
「シーシュポスの神話」
「ペスト」
「転落・追放と王国」
「カリギュラ・誤解」
「幸福な死」
「革命か反抗か (サルトル他共著)」
がある。
すべて読んでみたいと思う。
その感想については、このような機会に恵まれたならば、ここに記そうと思う。
そして、
我々(真実を口にしたがために疎外される者たち)はここに無罪を強く主張する!